命がけで訴えたもの―一、胎動


『夫婦道』をもって大任に入る

  日本がポツダム宣言を受諾して敗戦が決まった昭和20年8月15日は、敏雄にとっても衝撃の一日であった。その日の日記にはこうある。

ああ、何といふことであらう。
玉音くもらせ、泣きたまひつつ、よませたまふ。
すめくににかかることはもあるべしや
ただ夢のごとし涙も出でず
ただくやし、只あやし、言葉なし。

  茫然自失の日々が続いた。執筆の意欲も湧かない。半月余りが過ぎた。
  9月3日のことであった。敏雄は壮烈な決意のもとに『夫婦道』という論文を書き始める。

「この平和と世界文化建設の大任に入る」

  日記にそう記した。丸山敏雄たった一人が放つ小さな動きであった。しかし、ここに戦後日本の、まぎれもない道義再建への歩みが始まった。
  『夫婦道』を書くことが、どうして平和と世界文化の建設という大任に入ることになるのか。
  性は「種」の生命の永続に欠かせない。性の営みは男女夫婦の交わりにある。これほど切実な問題にも関わらず、普遍的な夫婦生活の原理やルールは明らかにされてこなかった。その確立こそ根源的な人類の課題であろう。丸山敏雄は以前からそう信じ、夫婦のあり方について考え続けていた。
  夫婦道を説くことによって、日本に平和と新しい文化を築く。それこそが自分の使命である――敗戦を機に自己の任務の重大性を確信し、その決意を「大任に入る」と日記に記したのだった。
  敗戦の悲嘆、悲憤を乗りこえて起った丸山敏雄は、黙々と研究・執筆に専念していく。

短歌会の発進

  昭和20年11月、敏雄は故郷の九州に旅立つ。〈日本再建のための精神運動を起こしたい〉。漠然とした考えだったが、友人、知人に支援、協力を求めるのが旅の目的だった。
  翌年の正月、敏雄は家人に尋ねた。
  「短歌の指導を始めようと思うが、どうだろう」
  短歌の創作を通して生活を浄化し、精神生活を立て直して、新日本建設のために勇躍しようとの力強い呼びかけに、全国の知友たちが共鳴した。
  ほどなく「しきなみ短歌会」が発足する。3月には『しきなみ』の創刊号が世に出た。「しきなみ(重波、敷波、頻波)」というネーミングには、敗戦の日本に押し寄せる艱難のイメージとともに、それに押し流されることなく自立の道を歩もうとする意図がある。短歌会の発進は、組織的な倫理運動の萌芽でもあった。

進むべき道の構想

  やがて丸山敏雄は一人の畏友と再会した。茨城県の水戸に広大な「八光農場」を経営していた石毛英三郎である。
  敏雄より5歳年長の石毛は、敗戦後の日本を深く憂慮し、国民の進むべき道を研究する人材を求め、丸山敏雄に白羽の矢を立てたのだった。
  昭和21年12月、水戸に赴いた敏雄は、石毛と旧交を温め、腹蔵なく意見を述べ合った。敏雄が構想したのは「文化研究所」の設立である。新しい日本の進路を探り、道義の再建を果たすためには、基礎的な研究から始めなければならない。敏雄の構想に石毛は賛同し、出資を約束した。
  名称を「新世(しんせい)文化研究所」と定め、5ヶ年計画が立てられた。研究所には、復員してきた長男の竹秋も加わった。所員は、各自の調査・研究課題を持ち寄り、成果を発表し合った。敏雄は主に道徳、倫理、歴史、教育、文学などを担当した。この研究所のユニークなところは、生活座談会の開催や生活研究雑誌の発行を計画するなど、机上の研究よりも実生活との結びつきを志向していたことにある。
  明けて22年、敏雄の身辺は急に慌しくなる。組織的な研究活動が本格化していったのだ。

『夫婦道』草稿
「夫婦道」草稿。世の中の立て直しを思い立ち、その第1歩となった記念すべき論文。

「しきなみ短歌会」での指導
「しきなみ短歌会」を指導する丸山敏雄。

『歌ノート』
生涯に作った短歌は約6,500首にのぼる。丁寧にノートに記されている。

不退転の決意で立つ
敏雄の「莫逆の友」であった石毛英三郎氏。