丸山敏雄人と生涯/59年の足跡


二つの出会い

   大学で敏雄は、日本古代史、神祇(じんぎ)史の研究に没頭する。また、当時の有名な倫理学者であった西晋一郎(1873~1943)から大きな薫陶を受けた。
   敏雄にとっては広島高等師範学校時代に、自宅にまで訪問して教えを乞うた恩師である。後に敏雄は「自分の説いている倫理の学問的系統は西晋一郎博士に受けた」と語っている。

毎日のように研究論文を執筆

   そんな折、運命を変える出来事があった。「ひとのみち教団」との出会いである。親友・岩田良昌から、西晋一郎の倫理と教団の教えが一致するという紹介に心を動かされた。
   敏雄が教団の広島支部を訪ねると、大倉という堂々たる体躯の指導者が現れた。「教えの根本を承りたい!」と単刀直入にぶつけた。
   大倉は、宇宙は神の顕現であることからはじまり、教団の教えを諄々(じゅんじゅん)と説いた。常識では考えられない出来事が日常的に起こる「奇跡」も、話の中にしばしば出た。
   異常な熱意で語られる内容に共感した敏雄は、その場で入会手続きをとった。

捨身の修行

   広島文理科大学を卒業した敏雄は、内定していた師範学校の校長職を辞して、「ひとのみち教団」の教師を志願した。友人も親戚も、激しく反対した。だが、人生の真理をさらに追求したいという敏雄の期待は燃え盛っていた。
   この教団は、天照大神(あまてらすおおみかみ)を太陽神として信仰し、教育勅語を教典とし、独特な技法で病気苦難の救済を行ない、もっぱら日常生活に即した実利的な処世訓を説いていた。
   一家四人、わずかな衣類のみをもって教団の門をくぐった。生活は清貧を極めた。社会的な地位を有し、年齢も長じ、学者として定評のあった敏雄は、「名誉心を捨てること」を教祖から指導された。

教団の准教祖時代の写真
   「悟るとともに行なう」という〈即行〉の実践も、厳しく叩き込まれた。気がつきながら捨てておくことがあると、割れ鐘をたたくような大声で叱られる。手紙ひとつをとっても「即刻に書け、返事を明日に延ばすな、先方についたら額にされるものと思うて、念入りに書け。書いたらすぐポストに入れておけ。手紙は手に持って行け、ポケットに入れるな、二日も三日も忘れるぞ」と教えられた。
   自尊心を消し、既成概念を捨て去り、自我を捨てる修行であると自覚した敏雄の修行はぐんぐん進んだ。低迷していた熊本支部長として派遣されると、徹底した実践により、大支部に発展させた。
   気がついたことはどしどしやっていく。汚れているから清掃しようと思ったら、引き延ばさないですぐやってのける。そうした弛みのない、みそぎの日々の中で、敏雄はいわゆる見神を体験する。

「他の教師と一緒に朝掃除を致しまして、皆が来ます前に広い支部の掃除を致しまして、雑巾掛けを致しまして、夕方又雑巾掛けを一生懸命致しまして、冬枯の楓のあります庭をジッと見て、風呂から上つたと云ふ気持で汗を流して涼しい気持になつて居ります時に、神様と云ふことを解らせて貰つたのであります」

   とにかく喜んで働いて、気づくままをさっさとやってゆくうちに、いろいろなことがわかってきて、自分の浅はかな尺度では大宇宙のことは何もわからないのだと、一切を大きく受け入れる気持になったときに、「これが神だ」と実感悟入したのであった。
   次第に教団の中で頭角をあらわしていった敏雄は、2年後には「准教祖」に任命される。

広島文理科大学時代
寸暇を惜しんで勉学に励んだ広島文理科大学時代。家族で安芸の宮島に出かけた、37歳の学生服姿。

論文『「日本書紀」研究』
さまざまな論文を精力的に著すなか、依然として確固たる結論を得ず、やがてこれが「ひとのみち教団」への入信へとつながっていった。これは昭和4~5年の論文『「日本書紀」研究』

中野中学校校長に就任した頃の敏雄
東京の中野中学校校長に就任した頃の敏雄(昭和10年撮影)。